プライスレスな子犬たち 人はなぜ犬を飼うのか(7)
鯨食(げいしょく)文化と犬食文化
日本には江戸時代から続くクジラ肉の食文化がありますが、1982年に商業捕鯨の一時中止が国際捕鯨委員会(IWC)で採択されて以来、調査捕鯨を除いては、クジラを捕ることができなくなり、クジラ肉は、日本の家庭の食卓からは姿を消してしまっています。
反捕鯨をかかげる国の人たちが、「クジラを食べるなんて、とんでもない」と言っていることに対して、日本が反論しているのも、日本という四方を海に囲まれた島国では、海洋資源であるクジラを食べることは古くからある食習慣なので、それを尊重して欲しいというものです。
もちろん、「海の野生動物であるクジラを絶滅から救え」という主張を無視するわけではなく、大食漢のクジラだけを過剰に保護すれば、海洋資源の枯渇につながりかねないという科学的なデータを示し、秩序ある捕鯨の再開を認めて欲しいと訴えています。
日本では歴史的に長い期間、畜肉を食べるのを禁じていました。しかし、クジラは魚と考えられていて、日本人にとっては貴重なタンパク源だったのです。イノシシは農作物を荒らす害獣として駆除されていましたが、その肉は「山クジラ」と称して、食べられていました。
海の生態系の頂点に君臨するクジラを獲ること「商業捕鯨の禁止」がIWCで採択されたため、日本は「調査捕鯨」としてクジラを獲る道を選びました。その後、2014年に、国際司法裁判所が南極海での調査捕鯨を禁止する裁定を出したため、日本は日本沿岸でニタリクジラやイワシクジラを獲る形への変更を余儀なくされました。
商業捕鯨の禁止に伴って、クジラ肉の供給量が減ったためだけではなく、日本人のタンパク源は、鶏肉、豚肉、牛肉などにシフトしていったことで、クジラ肉は、今や鹿やイノシシと同じような「ジビエ」の位置付けぐらいになっている印象があります。
日本人の「クジラ離れ」が進んでいるにもかかわらず、2024年に新しい捕鯨船「関鯨丸」が浸水しました。そして、水産庁は、捕鯨をする対象に絶滅危惧種に指定されている「ナガスクジラ」を加えました。
世界の環境保護団体や反捕鯨国からの反発があっても、日本が商業捕鯨を振興しようとしているのには、ふたつの理由が考えられます。
ひとつには、日本の食料自給率が先進国のなかでは、ダントツに低いことがあります。輸入食品に依存してきた結果、農業などの食料生産が衰退して、1960年代に70%あった食料自給率は38%にまで減ってしまっているのです。
もうひとつは、日本民族としての食文化の継承です。海に囲まれている島国の日本では、クジラは貴重なタンパク源として捕獲されて、利用されてきた歴史があるからです。民族としての食文化を守ることは、日本人としてのアイデンティティを守ることに通じるのです。
強行に捕鯨に反対しているオーストラリアでは、ウサギ、カンガルー、ラクダなどの野生動物の増加による農業や畜産業への被害が深刻化していて、それらを駆除するためとして、「野生動物の食肉化」に力を入れています。
欧州からの移民によって持ち込まれたウサギは、18世紀以降に狩猟の標的として飼われていたものが野生化、現在の生息数は2~3億匹に達し、農作物に深刻な被害を与えています。
ラクダは、英国からの移民が乾燥地帯の内陸部での鉄道建設や電話線敷設の荷役作業に使うために、エジプトやイラク、インドなどから持ち込んだものが野生化し、2009年では120万頭に増加、さらに10年後の2020年には200万頭にまで増えると予測されました。
そのような外来種だけではなく、オーストラリア固有の在来種カンガルーの増加による農業被害も深刻な問題となっています。オーストラリア政府は、カンガルー・ミート(別名ジャンピング・ミート)の消費を推進していますが、ここにきて、「ラクダ肉を食べよう」というキャンペーンも始めました。そのような政府の害獣の食肉消費キャンペーンに対して、国内の動物保護団体は、「捕鯨に反対しながら、カンガルーを殺すのは二重基準であり、矛盾している」と非難の声を上げています。ラクダの駆除とラクダ肉の消費キャンペーンが本格化すれば、さらに批判は強まるだろうと考えられています。
1980年、米国のサンフランシスコで、東南アジア系の人たちが公園に罠をしかけて、野良犬や野良猫を捕らえて食べていたというニュースが報道されました。そのニュースを発端に、「犬や猫を捕らえて食べることは軽犯罪である。よって500ドルの罰金もしくは6ヶ月の禁固刑に処する」といった法案の成立を要求する動きが起こりました。これに対して、「文化相対主義」の立場の識者から、「アジアでは伝統的に犬猫食の習慣があるから犯罪とは言えない」という反対意見が出されたのです。アジアだけではなく、アフリカ、オセアニア、昔のヨーロッパでも犬や猫を食べていたのだから、現在の自分たちの食文化を基準にして異文化を糾弾すべきではない。貧しく栄養不足の人たちには、動物性タンパク質を摂取する選択権があり、飼い主のいない動物を捕獲しても、市民社会の根幹である私有権の侵害にはあたらない」というものです。動物愛護団体からは、「動物の自由な生存権を脅かし、その命を奪う権利は飢えた人にもない」という反論が出され、異なる食習慣による文化摩擦を象徴する論争となりましたが、結局のところ、決着しないまま、法案も成立しませんでした。
犬や猫、そしてクジラのアニマル・ライトを擁護する動物愛護団体としては、野生動物のカンガルーや野生化したラクダたちは駆除してもかまわないとすれば、自己矛盾をきたすことになります。しかし、オーストラリアの基幹産業である農業を守るために、害獣は駆除せざるを得ず、「それでは自文化中心のご都合主義だ」との批判を浴びかねません。つまり、動物愛護は、無意識ながら自文化中心主義あるいは、同時代文化中心主義的な固定観念に捕われた、偏ったものになっている可能性があることを示唆しています。
(参考資料)「ヒトはなぜペットを食べないか」 山内昶著 文藝春秋刊 「ラクダを食べて豪州守ろう」 読売新聞 2009年6月11日号
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