2024年3月25日リリースの新サービス「谷マチ」立ち上げの背景と吃音社長
日本の未来を造る代表田中の想い「吃音と私」
コムパトロン株式会社(京都市:代表取締役田中薫)は“伝統産業を持続可能に“をテーマに 本日3/25寄付のプラットフォーム「谷マチ」ローンチ 新サービスリリースを記念し「谷マチ」立ち上げの背景と代表田中薫のあゆみに迫る
「谷マチ」立ち上げの背景とストーリー
資源のない国?日本の資源は、伝統産業。
きかっけは祖母でした。
うちは代々日本刺繍を生業としていました。
刺繍の中でもお相撲さんの化粧まわし、幕内土俵入りの時のあの化粧まわしの手差し刺繍です。品質はもちろんですが、誰に納めるか、三役なのか平幕なのかで値段がどんっと変わる羽振りのいい業界で、一枚納めるだけでうん百万の利益が上がりました。
祖母は力士のタニマチさんや、後援会からの発注で製作をしていましたが、
完全手作業ゆえに一枚仕上げるのに数ヶ月〜半年とかかり、さらに年齢と共に生産スピードは落ちていきました。
その間の収入が途絶えてしまうという問題がどんどん深刻化していくのです。
この仕事に未来が見えなくなり、祖母は自分の代で刺繍を辞めざるを得なくなりました。
祖母がこの世を去り、10年経った今、私はそれをお弟子さんから聞かされるのです。
私は企画畑で仕事をしてきて過去にはHISさんに経営が変わった当時のハウステンボスのイルミネーション企画もやりました。最後はファミリーマートで開発という出店のお仕事をしましたが、50店舗ほど作った頃に、自分のモノを生み出し方に疑問を持ちました。本来日本が持っていた美しいもの、地域性の強いものは、経済合理性の外になっていたり、要するに、売れるモノを生み出すことにのみ肯定され、必要なモノを生み出すことが後回しになっているということです。
そこで社会のために自分にできることを探すため、会社を立ち上げます。
何か困っているものに寄り添い、解決のために働きたいという想いでフランス語のコムデ(comme des 〜のように)と英語のパトロン(patron 支援者)を合わせてcomme des patronと書き、コムパトロンと発音する造語を会社の名前にしました。
BtoBの事業商社としてたくさんの事業を作り、納めました。
その間も本当に生み出すべきものをずっと考え続けました、毎年ダルマの裏に願いを書くほどに。
突然世界中でパンデミックが起きました。
仕事がたくさん飛び、空いた時間で九州や北陸へ旅に出ました。
伝統工芸品が好きなので、ガラスや焼き物、象嵌などを見にいろんな産地をまわり
せっかくなので違う職種の人に話を聞いてみようとあらゆる作り手さんとお話ししました。
すると、山のように出てきました、伝統産業の不安の声が。
私には美しい日本の崩壊が見えました。
不安の度合いや課題の質はそれぞれですが、共通するのは固定収入のなさ。
皆さん技術を持っているからまとまったお金を作ることはさほど難しくない。しかし「日々の活動費用」、「もう一人雇える固定の収入があれば」、「仕事に集中できれば」という声が山ほど出てきました。
祖母のことを思い出しました。
そしてお弟子さんから聞かされた廃業の理由がここで繋がるのです。
運命というか、祖母からのメッセージだと思いました。
祖母の刺繍、その技術が途絶えたことに対する引っかかりが悔しさとなり湧き出てきました。安定した固定収入があれば祖母は辞めなくて済んだかも知れない。
僕は祖母が刺繍をする姿を幼い頃から当たり前の光景として見てきたせいで、
おばあちゃんがいつもやってること、趣味みたいな風に捉えていたんです。
私は今、日本家屋に住んで、工芸品を好み、樹木やお花、苔など暇がなくても庭いじりをするような人間です。
絶対に刺繍を継ぎたくないなんて思わないはずです。
ちゃんと仕事だと認識していたら、私が継ぐ未来があったかも知れません。
同時に高いポテンシャルを感じました。
職人たちがお金の心配をせずに芸に集中したらどんなすごいものができるんだろう、と。
僕は今までに培った自分の力でこの社会課題を解決へと導くことができる!
2年間をかけてこの「谷マチ」の仕組みを作りました。
私がなぜ「谷マチ」をやれるのか、それは職人への強い憧れがあるからです。
職人さんの作品や製作風景を見るたび、話を聞くたびに思います。
自分の技術やプロダクトを持っている方って、本当にかっこいい。うらやましいと。
ようやくできた私のプロダクトは「谷マチ」です。
芸術家の皆さんには素晴らしい技術がある。売るものがある。それだけで十分です。
販路開拓やPR、そういう担い手はたくさんいますし、「谷マチ」も副次的にそれを担うことができます。
しかし今本当に必要なのは、間に入って機動的に継続的な資金を集めてくれる人です。
そんな人誰もいないでしょう?
日本に誇る技術を武器にさらに羽ばたき、美しい日本を守っていただきたい。
そのための環境づくりに必要な資金調達を我々に担わせてください。
まずは我々が職人さんにとって必要な存在になる、そしてタニマチ文化の再興ができれば、この領域の歯車の回転方向は必ず変わります。
それは資源のない日本が経済力を取り戻すことに繋がります。
僕を突き動かすもの、それは職人さんへの心からの尊敬です。
「吃音と私」
社長が自分の吃音症に気付いたのはいつですか?
―振り返ると記憶の限り吃音でした。
幼い頃に商社マンだった父が亡くなり、刺繍家の祖母と母と姉という家庭で育ちました。
どんな子供でしたか?
―姉弟で一緒に遊んだ記憶はありません。
地図や図鑑、「世界の国」のような本を与えられ、ずっと読み耽っていました。
小学校に入る頃には世界の国や首都、都道府県や県庁所在地、地方都市の名前などほとんどを覚えており、小学校では物知り博士と呼ばれた記憶もあります。
それでも、自身の知識を隠して周りに合わせて、子供らしくしていなければという感覚もありました。
そして、まず間違いなく小学校に入った頃から吃音もありました。
吃音症には度合いがあるみたいですが?
―私の吃音は、一貫して難発(最初の言葉が何も出ない)というものです。
幼い頃の社長にとっては相当辛い病気だったのでは?
―学校では、名前を言ったり、教科書を読んだり、発表をしたりと発言をする機会だらけです。その都度、極度の緊張と恥をかきたくないという感情がいっぱいになります。
教室でみんなの前で吃音が出ると、周りはざわざわします。幸い直接的ないじめなどはありませんでしたので、そこは当時の同級生に感謝しています。
授業では、国語など文章を一人一文ずつ音読をしていくことがありました。
具体的にどんな症状なのでしょうか?
―吃音は発しやすい音と、出ない音があります。
例えば、私の場合は、か行、た行、な行などが特に出ません。
通常の会話であれば、出来くい言葉の前に、「えー」や「そうですね」などを付けたり、違うワードチョイスで乗り切ります。
しかし音読など決まった文章や言葉を言わなければならない、これが地獄です。
しかも、私の名前は「たなかかおる」。苗字も名前も「か行」と「た行」、自分の運命を呪いましたよ。
なお、それ以外の音なら全部言えるというわけではないので、授業で「ここを答えなさい」とあてられても、吃音が出ると思う時には、答えが分かっていても、「分かりません」と答えるしかないことなど往々にありました。
相談できる人はいましたか?
―周りに吃音の友達はいないし、何をするにも「吃音さえなければ」「願いが一つ叶うなら吃音が治ってほしい」と常に思っている状態で、今思うと、楽しいことも心からは楽しくなかったと思います。
私の記憶では、小学校より中学校、中学校より高校と、そうした発言や発表の機会は減っていったように思います。もしくは私が避けていただけかも知れません。
大人になると病気との付き合い方は変わりましたか?
―社会人になっても、入社面接、電話に出るとき、プレゼンをするときなど吃音に対する壁はたくさんあります。
周りが「あー緊張する」と言っているとき、「吃音じゃないのに何が緊張するだ」と本気で腹が立ちます。
それでも、大人になるとだんだん、自分の中の「吃音」という悩みの比重が少なくなっていきました。それは、日常における吃音が出るシチュエーションが減ったからかと思っていましたが、違いました。
吃音が出るシチュエーションというと?
―これは、吃音が出やすい状況がどういう状況かを振り返れば分かりました。まず吃音が出にくい状況を考えると、「家族との会話(絶対ではない)」、「独り言」などです。
反対に吃音が出やすい状況は、「大勢の前で話す」、「決まった言葉を話す」など。
なぜ「大勢の前で話す」と吃音が出るのかは「緊張」であり、緊張の理由は「不安」という結論になります。
そうすると、この不安を不安でない状態にすれば良いと思いました。
不安というのは、自分が自信がない状態で臨むことで引き起こす感情、つまり準備不足、怠慢です。
ここが分かってから、私は全てを自分の得意分野にしようと、森羅万象あらゆる分野に興味を持ち、Wikipedia という便利なツールの普及に合わせてたくさんの知識を吸収しました。
苦労もあったのでは?
―元々、幼少期から無駄なことばかり覚える癖がありましたので、私にとっては自然なことで、結果、完全ではないけどどんな話題にもついて行ける状態になりました。
そうすると、不思議なもので、仕事でうまくいくようになります。私はファミリーマートで「開発」という店舗を出店する仕事を京都でしてきましたが、この仕事はたくさんの地主やビルオーナーとの会話が必要な仕事です。知識が増え、自信がついたのか、全国一位を連発し、最優秀賞も何度ももらいました。
仕事で結果を出し始めると、さらに自信がつき、ときには京都の大物たちとお話をし、誰とお話をしても家族や友達と話をしているように気取らず落ち着いて話している自分がいました。これは私の中の一つの研究事実だなと思います。
それは吃音を克服できたということですか?
―この話は吃音症の治療法でも特効薬でもありません。現に、私は今でも吃音症です。
しかし、吃音で悩む人の、あるいはその親御さんの希望にしてもらえるのではと思っています。
親御さんですか?
―私が子供の頃には少なからずそんな希望はありませんでした。
それどころか、家族に相談しても「大丈夫」「落ち着いて話しなさい」と言われ、当時の少ない情報の中で、田中角栄さんが吃音を浪曲で克服し、政治家になったと知っても「治ったのならそれは吃音症」ではないと思ったほどです。
しかし、よく考えれば本当に吃音で、政治家まして総理になった田中角栄氏は「吃音」を、自身の人生や悩みにおいて大したことでないと考えていたのではないか。
そう考えるとそれは全吃音者の希望であり、また元アナウンサーの小倉智昭氏も吃音がひどかったから言葉を話す仕事に就いたという尋常ならざる判断とその結果からすると、やはり私が述べた事実と共通するところが多く、「場を踏んで心を鍛える」ということと、それを結論ではなく、具体的な経験談として残しておくことが吃音者の心を癒すことなんだと思います。
今、私は「谷マチ」という日本における新しい役割を浸透させ、経済合理性の外側になっている伝統産業の領域に希望を注ぐことに全力を捧げています。
私は、声を大にして言いたい。今願いが一つ叶うならそれは吃音を直すことではないということを。
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