第7回 真珠湾「騙し討ち」説の崩壊―ルーズベルトは知っていた、その最終にして完全なる報告7

株式会社22世紀アート

2023.11.15 17:23

日本の名誉回復に声を上げる。岸信介が「世紀の愚行」と称した真珠湾先制攻撃に厳正なる評価が行われることを切望する、白松繁氏が送る全11回にわたる報告書。

真珠湾史実研究会代表 白松繁

真珠湾攻撃事前察知“予知説”の立証3「海軍D暗号の解読」

1.D暗号の概要

日本海軍が使用した暗号は、1930年12月1日以前が91式欧文印字機による機械式カナ3文字暗号で、表紙が赤色だったことで「赤本または赤暗号書(レッドブック)」と呼ばれた。同年12月1日以降、1938年11月30日までは、カナ4文字暗号「青本または青暗号書(ブルーブック)」を使用した。しかしこれら赤本/青本暗号とも主として米海軍による直接法(大使館や領事館に侵入して暗号書を盗撮)により解読されていた。

日中戦争拡大に伴い日米間緊張の一層の高まりを背景に、日本海軍は絶対解読されないとした暗号書「D」初版一般(米海軍呼称JN-25A)を1939年6月1日に採用した。海軍暗号書Dは、発信用と受信用の2冊があり(収録暗語5万5千語)、鍵となる乱数表(1ページ100個の乱数掛ける500ページ(合計5万個の乱数)とで一体をなしていた(1)。乱数表は2~6か月毎に更新し米側による解読防止を図った。1940年12月1日以降、1942年5月27日まで改訂版一般2(同JN25-B)を使用した。ところがここで問題が発生した。D暗号を初期のタイプ25Aから25Bに切り替えた1940年12月1日、日本は25Aタイプ時の乱数表5をそのまま継続して1ケ月間使用したため、米海軍は早々に25Bの暗語3万3千語のうち約2千語を解明できた(2)。この2千語が使用頻度の高い群に入る可能性大で、米側のD暗号解読に弾みをつけたことは確実であろう。なお、乱数表変更ごとに解読スピードが落ちるので、米海軍はIBM計算製表機を駆使して「対応表」を作成し、そのスピードアップを図ったとのことである(3)。

2.D暗号解読実態

絶対解読されないはずの5数字暗号も、米海軍暗号解読班所属の暗号解読の天才アグネス・マイヤー・ドリスコール女史のひらめきの前に早々に破られてしまった。女史は従来とは異なる「D暗号」に接したとき、米西戦争時にアメリカで使用された暗号に似ていると直感、解読の糸口となった(4)。その後、女史の主導でD暗号解読手順書RIP74D(日付1941年7月1日) および5数字33、333個中9、822語の暗語から成るRIP80を‘41年7月に作成、開戦前のD暗号部分解読(29.5%)を実現していた(5)。ここで刮目すべきは部分解読といっても、全暗語の約3割であり、しかもこの早い段階で解明されていた用語は使用頻度が高い暗語群であり、日本海軍の通信文解読にさしたる困難はなかったと考えている。その根拠を次に示す使用頻度別解読率にて解説する。

3.使用頻度別解読率

『Battle of Wits(知恵の戦い)』の著者ステフェン・ブディアンスキーによると、米海軍が1941年11月時点で解明できた暗語は全体の10%にも満たない3,800語、乱数2、500であり、このレベルの解明数では暗号通信を正しく解読することはできなかったと述べている(6)。一方、IBM統計機を使ってD暗号傍受暗語の度数調査を行った米海軍によると、使用頻度の極めて高い暗語群(数十語程度)、頻度の高い暗語群(数百語)および頻度の低い暗語群(残り分)の3群から構成されていることが明らかになった(7)。この調査結果により、D暗号は、超高頻度群と高頻度群合わせて600語ほど解明できれば、大方の通信を解読できるということになる。

上記のように、より現実的な使用頻度の考え方を取り入れた場合、通常ほとんど使用されない暗語および低頻度群を多数含む暗語総数33,333語を分母として、3,800語の解明率が、わずか10%ほどであると決めつけることは妥当ではない。D暗号立ち上がり時より、41年11月までに解明されたとする3、800語は、頻繁に使用された故に抽出された使用頻度の高い群に属するといえる。故にその分母を暗語総数の2分の1、3分の1と設定すれば、暗語解明率が各々23%、33%となる。9分の1の設定は極限の例であるが、3、800/3,800は、計算上解明率が100%となる。従って、たとえ解明数が3,800語であっても、使用頻度率の適用でD暗号は20~30%の割合で部分解読できていたと判定可能であり、ブディアンスキー氏の言う解読不可説には同意しかねる。頻度を折り込んだ見方をすれば、3,800語(600語の6・3倍)も解明できていたということになる。

ところで、この1941年11月時点3,800語の解明も、上述したように同年7月作成とされているRIP80では、9,822語の解明がすでに明らかとなっている事実から(8)、その根拠は明確とはいえない。そこで、当時の解明数を9,822語とすれば解明率は、29.5%に達する。繰り返しとなるが、殆ど使用されない暗語多数を含む総数33,333語をあえて分母として使う必要はなく、公文書館史料にある9,822語を使用頻度の高いグループとして捉え、分母をそのまま9,822とすれば、解明率は100%とにも達する。すなわちD暗号は、開戦前に100%ではないとしても相当高い確率で解読できていたということになる。

4.D暗号解読例

1)ヒトカップ電とニイタカ電

真珠湾で最もよく知られた電報といえば、1941年12月2日発信の山本長官の戦闘開始命令「ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ(1208)」であろう。もう一点は、機動部隊の出撃場所となった“ヒトカップ湾”の名称が出てきたことで注目された電報が、11月18日軍令部第一課長発信のヒトカップ電である。

いずれも米側に解読されれば、日本の攻撃意図が明らかとなる電報であった。しかし彼等がこれらを解読し、日本の攻撃を事前に察知したとする確たる証拠はないとの米側の見解を覆すことができず、今日に至っている。米海軍はこれらを傍受したが、解読はできなかった、解読できたのは傍受電右下にNavyTrans.4/24/46(ヒトカップ電)とあるとおり、戦後との主張が根拠になっている。

そこで、これら2点の重要電が米主張通り、傍受時全く解読不能だったかどうか、公開された史料を基に改めて検証を試みたので、その内容を報告する。結論から述べると、傍受当時、これら2通が当時解読できていたことを明らかにした。そのエビデンスは、既述したように真珠湾前作成の「D暗号解読手順書「RIP74D」と暗語と5数字の対照リスト「RIP80」の存在である。さらに米海軍は日本のD暗号暗語総数33、333語のうち最低でも3,800語を解明していたこと、呼出符号、乱数表を驚くほど短時日で解読していた事実、政府関係者の証言等々である。これらの事実をベースにヒトカップ電の検証を試みる。まず米海軍が機動部隊のヒトカップ湾集結を察知した経緯を以下に示す。

 

1941年11月11日発信の佐伯湾集結電を米海軍が傍受、呼出符号の解明で機動部隊構成艦船名を解明した。

 

 

同年11月中旬より空母と給油艦船が国内各港を出航、そのため11月21日以降国内各主要港の艦船碇泊がゼロとなった。

 

機動部隊がヒトカップ湾集結開始前の11月19日、機動部隊全艦船対象の無線封止令が発令、そのため米海軍は一時追跡不能となったが、一斉に無線が途絶えたことで大規模作戦の開始を察知した。このとき日本は盛んに偽電発信をして、あたかも空母群が九州近海にいるように見せかけたとしているが、その効果はハワイHYPO局では見られない。偽電発信に相当する通信を傍受した記録がない。ロシュフォート局長も偽電に騙された者はだれもいないと断言している。12月3日、情報参謀のレイトンがキンメル長官に「日本の空母は、いま何処いるか」と聞かれたとき、「空母の通信が10日以上も途絶えているため、国内にいるか、海上にでているかが不明である」と答え、キンメルを失望させている。一方、日本の軍令部から機動部隊宛て真珠湾艦艇情報を伝えたA情報発信、山本長官名の11月21日の第2開戦準備令、25日の無線封止令、同出撃命令、30日の機動部隊「赤城」の発信、軍令部のAI(ハワイ)、AF(ミッドウエイ)方面の天気予報電の発信を傍受、さらに後述するオグ報告等々で機動部隊のハワイ接近を察知していた。本件は次回報告8、「無線封止の崩壊」でその実体を報告する。

 

呼出符号ROTU00の潜水艦(イ21かイ23号)が出航後の11月19日に、またTAYU66の潜水艦(イ19号)が、翌20日に「通信ゾーン変更」を発信、横須賀ゾーンから大湊(青森県)ゾーンへ、その後は第一航空艦隊ゾーンへ向かうと所属部隊に報告。当時米海軍は、この定形型の通信ゾーン変更通知を解読できていたため、機動部隊所属の潜水艦が大湊からさらに北の地点への移動を察知した。北方で大規模集結地といえば北海道の厚岸湾があるが、ここは人目を避けることは困難、そこで人目につかなく、大部隊が集結できる十分な広さがある港湾といえば、自ずとエトロフ島ヒトカップ湾へと行き着く。この事実は、スターク大将の議会証言「当時(真珠湾前)ヒトカップなる名称を知っていた(電子本p162、添付31参照)」との付合で明らか。

11月18日“ヒトカップ電”を傍受「軍令部より大湊要港部に所用で第一航空艦隊を訪ねた鈴木なる人物を、11月23日か24日に“ヒトカップワン”にて貴所属艦に収容されたし」を部分解読、第一航空艦隊の集結先がヒトカップ湾と判明、電文中の第一航空艦隊の5数字「x31011」がRIP80リストp59に“ダイイチコークーカンタイ‘(第一航空艦隊)と明示されている。さらに同リストで「ヒトカップ湾」の1語ごとにあてはまる5数字の存在が確認できる。(ヒの5数字x45291,トがx37500.カがx53058、ツが34428、プがx52125、ワンがx02400)これにてヒトカップ湾名を知った。

ここで注目すべきは、5数字を黒塗りしたヒトカップ電と5数字をそのまま表示している2種類のヒトカップ電が存在していることである(スティネット本p96,p97参照)一例をあげると、公文書館RG38の公開電では、1st Air Fleet(x 31011)とあり検閲前の状態を示している。一方、RG257の公開電は、1st Air Fleet///////と5数字31011が黒塗りされている。この意味は、傍受時すでにx31011が併記されていた。すなわち5数字D暗号を解読していたということの証左となる。

 

(まとめ)

上記①~⑤の解明で、空母6隻から成る第一航空艦隊(米側名称Striking Force打撃部隊)が11月23日ヒトカップ湾に集結していることが判明。行き先は、北海道よりさらに北方のエトロフ島という位置関係から、また空母6隻を含む総数30隻の部隊規模から、その目標場所がアジア方面であるはずがなく、自ずとハワイと特定される。

 

次にニイタカ電「ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ(1208)クリカエス1208」を検証する

本電もRIP80より、電文17文字を5数字変換に可能。とくに数字は解読され易く12の5数字がx45411,08はx92475に変換。そもそも暗号を組むとき数字は解読が容易なため、そのまま使用しないことが原則。開戦日を、日付通りの1208としたのは大きな間違い。たとえば「ニイタカヤマノボレ」が解読できなくても、1208が解読できれば、日米緊迫下、山本長官名の攻撃を示唆する重要発信が続くなか、12月2日傍受の山本長官名通信に12月8日とあるだけで、それが開戦を意味すると容易に察しがつく、まして2回も繰り返すなど論外であった(陸軍の場合の開戦日は「ヒノデハヤマガタ」が一回だけであり、この電文から12月8日を連想できなくしている)。次に、ニイタカヤマの5数字は、新(05859)、高(63219)、山(90390)で、ノボレは登(45360)とレ(26526)組み合わせとなる。この電文を翻訳したG2なる訳者のコメントが載っている。「日本で最も高い山(台湾の山)に登れとは、なにか大きな仕事を成せと命じていると解釈できる」と、そこに数字の1208である。タイミング的にも、12月8日の開戦と察知できて当然であろう。さらにこれを証拠づける下記事象が、そのとき真珠湾に向かっていた「空母エンタープライズ」で起きていた。

空母エンタープライズの出航4日目(12月3日)と5日目(12月4日)の二日間の水平移動距離をあえて低下させたため、予定の12月6日帰投(運用計画では12月5日)ができなくなった。ここで注目すべきはニイタカ電の傍受が12月2日で、それに呼応したように、エンタープライズの水平移動距離が12月3日と4日の二日間、低下している。Log Book「航海日誌」に基づき確認した結果を「拙著電子本p145、添付9、fig. a エンタープライズの移動距離,艦速、風速」に示している。

この移動距離の低下により真珠湾帰投が当初の予定より2日遅れたため、同空母は真珠湾の災難を免れた。天候が荒れたため帰投が遅れたとする偶然の幸運ということのようだが、注目すべきは、それ以前にスピードダウンしていた事実があったことである。ソルトレイクシティ艦長ザカライアス大佐の証言録参照(9)。このスピードダウンは12月2日のニイタカ電(12月8日開戦、米時間12月7日)を解読した故のスピードダウンであり「当初予定の12月5日には帰投しない」との意思表示であったとの解釈も可能。

2)米海軍作成報告書「パールハーバー攻撃に先立つ日本海軍通信文」

 終戦直後作成された上記報告書は、誤解を招く恐れありとされ非公開となったが、45年後の1991年10月に公開された。本報告書によれば、1941年9月初めから真珠湾攻撃まえの12月4日までに傍受した日本海軍の暗号電報は、総計26,581通(日割り292通)で、そのうち真珠湾攻撃に関連したものは、188通であった(筆者コピー保有)。そのなかに、上記で解読例として紹介したニイタカ電、ヒトカップ電ほか、尻矢の航路報告電、潜水艦の通信ゾーン発信電、軍令部発信の天気予報電等が含まれている。これだけ多数の真珠湾関連情報を傍受していて、どうして奇襲を予知できなかったのかとの疑問が沸くのは当然である。45年ぶりの公開時のNSAの文書説明によれば、1941年の間、解読者不足で傍受電をタイムリーに解読できなかった故と釈明している。(Due to lack of personnel during 1941 ,none of the above systems were read currently)。ところでこの意味の取り方であるが、筆者は「1941年の間、解読者が不足していたが(8名が解読に従事していた(10))、彼等は、解読のプロとして国家緊急時の重大使命を果たすべく日夜懸命に解読作業をしていたが、タイムリーに解読できなかったため奇襲を防ぐことができなかった」との意味に解釈する。即ちD暗号解読は、全くお手上げで当時解読不能で放置していたとは考えない。手元にある188通のコピーにも戦後解読との記述はない。しかるに、SRN公開文書は全て戦後解読となっている。ここでも2種類の文書が存在している。パープル暗号のように即日解読というわけにはいかなかったかも知れないが、上記で取り上げた重要電は、いずれも(特にニイタカ電)は、短文かつ明瞭であり、RIP74の解読マニュアルおよびRIP80の9,822語の暗語コード解明事実から、2~3日もあれば十分解読できたと判断している。当時の米海軍解読能力からして最低でも“1208”の数字は解明できたことは確実といえる。     

また、上記ザカライアス大佐の証言からすれば、12月2日傍受、同3日スピードダウンが実施されているので、即日解読だったことになる。この重要電を未解読のまま終戦まで放置したとすれば、真珠湾前の米海軍の暗号解読のための解読者を含む総従事者730名(終戦時8,454名(11))から成る米海軍の暗号解読組織は、いかなる仕事に従事していたかが改めて問われることになる。

3)D暗号解読エビデンス‐暗号専門家の証言

ハワイ海軍区情報参謀エドウィン・レイトンのコメント:ハワイHYPO局長ジョセフ・ロシュフォートは、1941年夏までに日本海軍作戦部隊の全体の構成と、無線通信のパターンにかなり通暁していた。日本海軍暗号は解読できなかったけれども、通信解析と無線方位測定により、発信局または部隊の位置を(高性能RDFで)正確に測定し、通信の周波数や量,宛先などから通信内容を分析、評価した。われわれはこの時期、最も重要な諜報は日本の艦隊が大規模な航空機主体の組織改編中を示す兆候であった。米太平洋艦隊には空母が3隻しかなかったので、この新艦隊は恐るべき脅威となった。われわれは、第一航空艦隊司令長官の南雲は旗艦「加賀」と「赤城」から成る“第一航空戦隊”に座上するものとみた。以下「蒼龍」「飛龍」から成る“第2航空戦隊”、「龍驤」と「鳳翔」から成る“第3航空戦隊”、最新鋭艦「翔鶴」と「瑞鶴」から成る“第4航空戦隊”(正しくは第五航空戦隊)の空母艦隊の編成を知った(12)。呼出符号解読と方位測定および通信解析でこれだけの正確な情報を察知していたとは驚きである。一方、日本海軍の場合、通信傍受の入り口である呼出符号の解読もままならず、主として通信量の増大、急減のみで作戦の開始と停止を判断するため信頼性が低く、出撃しても敵艦と遭遇しなかったケースがあった。また方位測定のための方向探知機の精度も米製と比べ劣っていた。米側と比べ日本の通信解析力差は歴然としていた。

ハワイHYPO局配下の戦闘情報班所属のW・J・ホルムズ大佐は自著『太平洋暗号戦史』(英文名「DOUBLE-EDGED”Z” SECRETS」の中で、1941年11月1日午前零時、日本海軍の全呼出符号が変更されたが、数日のうちに新しい呼出符号が判明し、その月の半ばまでには、それらを事実上解読することができた。また同年12月1日前回の変更からわずか一カ月で再び呼出符号の変更が行われたが、それも二日以内に、もっとも頻繁に使用される呼出符号のうち、200の身許を割り出すことができたと述べている(13)。まさに驚異的解読スピードである。

マニラ湾コレヒドール島にあった監視局CASTの局長ジョン・リートワイラー大尉は、1941年11月16日ワシントンの海軍司令部,リー・W・パーク大尉宛ての手紙で、部下であるコレヒドール島の暗号解読班が日本海軍の暗号電報を傍受、解読、翻訳していることを通告した。内容は「ワシントン提供の乱数復元装置JEEP Ⅳは使い勝手に難があり、推奨できない。われわれは新しいやり方で高周波電報400通を使って、乱数2万4千個からなる乱数表を作成した。われわれは2名の翻訳係を常に多忙ならしめるに十分なほど、現在の無線通信を解読している」と述べている(14)。

1971年4月22日FBIのR・R・ビーバーから、フーバー長官の補佐役クライド・トルソン宛ての手紙で「米海軍は真珠湾奇襲前に日本軍暗号を解読していた」(the U.S. Navy did break the Japanese military code prior to the attack on Pearl Harbor)と述べている。手紙のタイトルは“第二次大戦中の日本及び米国の暗号について”であるが、その下に手書きで“日本の真珠湾攻撃”と記載があり、文中に上記の如く解読実態が報告されている(15)。海軍暗号とは書いてないが真珠湾攻撃に絞った内容であり海軍暗号であることは確実である。

ワシントンの米海軍情報部US局長のローランス・サフォードは、査問会でD暗号のおよそ10%は解読できていたと証言している(16)。ハワイ第14海軍区情報参謀エドウィン・レイトンは、たとえ10%だけでの解読であっても、通信の意味をある程度推定することはできたはずと述べている。

日本海軍暗号の第一人者でD暗号に精通している原勝洋氏は、自著『インテリジェンスから見た太平洋戦争』の中で、米海軍通信諜報暗号班「OP-20-GY」の1941年10月1日付け記録を表示、「AN-1コード(現行作戦暗号)は1940年12月1日実施、暗号符字約2400の意味を復元。また、AN-1乱数表No.2(現行)はすべての乱数開始である加算符表(001-999)は復元。1941年8月1日実施、乱数開始位置を示す乱数加算符表49個を復元した」とあり、この記録は日本海軍暗号書Dの暗号方式が破られていることを示していると述べている。またJN25Bの改版暗号書収録誤探知は、1941年4月1日から12月1日までに延べ約10700個を探知していた。さらに、氏はJN-25B-7(乱数表第7号、期間1941年8月1日~12月3日,ニイタカ電もこの期間中に発信された)を、日本の奇襲攻撃を警告することはできなかったが、米海軍は間違いなく読んでいたと明言している(17)。

 

(まとめ)

日本海軍のD暗号解読に関しては、米国暗号専門家のデイビッド・カーン氏、ステフェン・ブディアンスキー氏、日本ではD暗号に精通されている元海軍大尉、左近允尚敏氏が米海軍は真珠湾前D暗号を1通たりとも解読していなかったと主張、定説化している。しかし本報告6,7で明らかなように、米国のNSA, CASTの局長リートワイラー、FBIのR.R.ビーバー等は真珠湾前に解読していたと公式文書で述べている(NSAによると解読作業はしていたがタイムリーに解読できなかったとのこと)。またサフォードは全く解読できなかったわけではなく、10%程度は解読していたと明言している。レイトンは、たとえ10%であっても、ある程度通信の意味を察知できたはずと諜報の専門家としての見解を述べている。D暗号を破った暗号解読の天才アグネス・マイヤー・ドリスコールはD暗号解読説明書の作成と、9,822語暗語解読コード表RIP80の作成を主導していた。これらの事実に基づき本報告では、ニイタカ電、ヒトカップ電も真珠湾前解読できたことを明らかにした。ブディアンスキー氏の主張する暗語3,800では、通信文の解読は不可能との主張に対しては、よりリアルなアプローチとなる使用頻度率を適用すれば、3,800語もあれば部分解読できたとことを本報告で明らかにした。

 

真珠湾攻撃以前の米海軍暗号解読組織コミントは、暗号解読者、翻訳者を含む関係者総数は730名、大半はワシントン勤務でハワイに186名、コレヒドールには78名が駐屯していた(18)。これだけ膨大な組織がありながら、真珠湾前の9月より12月4日までに傍受した26,852通中1通も解読できなかった「故に奇襲に対する対応ができなかった」とする戦後解読説(SRN管理記録ベースの主張)は、もはや本報告を以て瓦解したと判断している。

 

(1)原勝弘著『インテリジェンスから見た太平洋戦争』潮書房光人新社、2021,p111。エドウィン・レイトン著『毎日新聞外信グループ訳『太平洋暗号作戦(上)』TBS ブリタニカ、1987,p95では「1939年6月1日に使用開始されたJN25 ANサイファーは3万3千3百3十3語から成る発信用と受信用の2部制とあり、コードは無電の誤りを簡単にチェックできるように、3で割り切れる5ケタの数字になっていた」とある。

(2)「レイトン本(上)」p96。原勝洋著『暗号はこうして解読された』kkベストセラーズ、2001,p103,「1941年1月4日、米海軍諜報班は日本海軍暗号書25Bの3万3千語のうち約2千語の意味を復元できた」

(3)「レイトン本(上)」p96

(4)この暗号は米西戦争でアメリカ政府が使用した暗号に類似していることを、ドリスコールが認識、破ることができた。「スティネット本」p140,類似している件はp161、註33、グレッグ・メレン編『Rhapsody in Purple: A New History of Pearl Harbor』(Criptologia July1982, p220参照、なお5数字暗号形式は危険とされ、アメリカでは米西戦争以降使用していないとのこと。

(5)拙著『そのとき、空母はいなかったー検証パールハーバー』文藝春秋、2013年、p272の暗号解読手順解説を参照、またRIP80の作成も同年7月となっている(スティネット本p142参照)。筆者はRIP74DとRIP80のコピーを第二公文書館にて入手、手元に保管。

(6)ステフェン・ブディアンスキー著『Battle of Wits』Penguin Books,2000, p8-9

(7)長田順行著『暗号、原理とその世界』ダイヤモンド社、1971,p332

(8)筆者は2017年、第二公文書館訪問時にRIP80を閲覧、9,822語を確認。コピー保有。

(9)ハルゼー艦隊の随伴艦は帰投途中,艦速を上げるなとの命令があった(Halsey’s Task Force was originally scheduled to arrive back in Pearl Harbor on the fifth of December, 1941, but was delayed by fueling and weather and “now I know because of certain orders which did not speed us up)との巡洋艦ソルトレイクシティ艦長ザカライアス大佐の議会証言録p8734あり、拙著電子本p146、添付10参照。但し2回目の確認尋問では、前言を翻し「それは風聞に過ぎない」と訂正した。しかし、このような場合、得てして一回目の証言が正しい。

(10)吉田一彦著『暗号戦争』小学館、1998,p73

(11)レイトン本『太平洋暗号作戦(下)』p352

(12)本コメントは、D暗号解読の証拠ではないが、方位測定、呼出符号の解読による通信解析で、これほどの正確な日本艦隊情報を把握していた実態は驚きというほかはない。レイトン本『太平洋戦争暗号作戦(上)』p170

(13)W・J・ホルムズ著、妹尾作太男訳『太平洋暗号戦史』ダイヤモンド社、1980,p33

(14)リートワイラーの手紙(1941年11月16日付け)、スティネット本、p498

(15)(FBI職員R・R ビーバーよりトルソン補佐官あての手紙。スティネット本、p486

(16)レイトン本『太平洋暗号作戦(上)』p287、「サフォードは1941年を通じJN-25の約10%が解読されたと証言した」、同本p325,「サフォードによれば、1941年12月には「部分的には解読」されていたとの証言は、本報告の主張「部分解読」はできていたと一致。

(17)原勝洋著『インテリジェンスから見た太平洋戦争』潮書房光人新社、2021,p118

(18)同上吉田本p81

 

 

【著者書籍】
そのとき、空母はいなかった: 検証パールハーバー (22世紀アート)/白松 繁
真珠湾攻撃 「だまし討ち説」の破綻 裏口参戦説を糾す/白松 繁

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