第3回 真珠湾「騙し討ち」説の崩壊―ルーズベルトは知っていた、その最終にして完全なる報告3
日本の名誉回復に声を上げる。岸信介が「世紀の愚行」と称した真珠湾先制攻撃に厳正なる評価が行われることを切望する、白松繁氏が送る全11回にわたる報告書。
真珠湾史実研究会代表 白松繁
日本の真珠湾攻撃、ワシントンでは想定内-「青天の霹靂説」を糾す
日本の真珠湾攻撃は、現場の兵士にとっては「青天の霹靂」だったかも知れないが、ル大統領の「War Cabinet(戦争内閣)」メンバーにとっては「想定内」であった。しかし結果は惨敗。この極端な落差に真珠湾問題の本質が潜んでいる。以下想定内であった検証を試みる。
〈検証1〉海軍力増強策と真珠湾の軍事基地化推進
・1933年3月、ル大統領が第32代米大統領就任後直ちに行ったのが、海軍力の増強(1934年第1次海軍拡張法案、ヴィンソン・トランメル法成立、以降1938年第2次拡張法案、1940年第4次拡張法案成立)であった。第4次拡張法案の総トン数133万トン増強案は、日本海軍総トン数147万トンに匹敵する規模となり、第4次が完成した時の日米艦艇比率は10対5となり、日本を完全に圧倒することになる。ロンドン軍縮条約の対米重巡洋艦比率10対6(全艦船比率は10対6.975)に不満を持つ加藤寛治軍令部長等対米強硬派の主張で1935年1月15日、日本は同条約からの脱退を決定した。その結果、日米建艦競争の再開となり、日本は戦艦「大和」「武蔵」及び空母「翔鶴」「瑞鶴」の建造を決定、米側は上記ヴィンソン・トランメル法による拡大策を進行させた。
この海軍拡張計画推進の影の功労者が、平和の使徒とされ、戦後ノーベル平和賞を受賞した国務長官コーデル・ハルだった。ハルは1936年になると、戦艦3隻、空母2隻の建造を急ぐ必要があると政府要人に説得してまわった。ル大統領が「ハル国務長官が大海軍の必要を説くとは驚いた」と友人のバーナード・バルークに言った(1)。ハルは国務省の極東部長に対日強硬派のスタンレイ・ホーンベックを起用、「ロンドン軍縮会議に何の期待もせず、妥協を許さず、破棄された方がアメリカにとって有利である」とのホーンベックの進言を聞いていた(2)。ハルが12年間(1933~1944)の長きにわたってル大統領に仕えることができたのも、大統領の究極のネライである「日本打倒」に共感、表向き国民の反発を招かない形、常に平和維持と抑止力維持という名目で海軍力増強、経済的圧迫を図るハル独自の巧妙な外交戦術が功を奏していたからである。最終的に表向きはともかく「ハルノート」の提示で目論見どおりの成果、“日米開戦”を実現させた。
1938年春、内務長官イッキーズは、ハルはヒトラーとムッソリーニには譲歩しているのに、「日本のこととなるとただサーベルの音を立てて構えるばかりだ」述べ、「アジアの国際的悪漢(ならず者)として、激しく攻撃した」と日記(1938年3月25日)に書いてる(3)。日米平和交渉が成功する基盤は、元々存在していなかったと言える。
〈検証2〉対日戦争計画「オレンジプラン」の継承
ル大統領の次なる手が第26代セオドア・ルーズベルト大統領時代に作成された対日戦争計画“オレンジプラン”の継承であった。同プランは都度改定され、その内容は極めて精緻且つ豊富であり、他の国のプランとは全く異なる次元の扱いであった。いかにアメリカが対日プランに真剣に取り組んでいたかがわかる(4)。『オレンジ計画』の著者エドワード・ミラーは最初のオレンジ計画から50年後に日米衝突が起きたと言っている。日米の確執がドイツとは比較にならない長期間だったことを物語っている。1940年12月、カラーコードベースのオレンジプランが廃止され、複数国対応をベースとしたレインボープラン2,3,5が策定されたが、翌年5月ヨーロッパを優先するレインボープラン5、WPL46が実行プランとして採用となった。しかし真珠湾攻撃で対日独同時開戦となるや、従来のオレンジ計画がほぼそのまま適用された。大西洋艦隊より空母3隻を即太平洋艦隊へ移管させたのも対日戦優先を明らかにしている。そもそも日米平和交渉も行き詰まり、暗号解読等で日米衝突が予想される中、スターク大将がヨーロッパ優先のレインボー5を最終プランとして採用に踏み切ったこと自体、あたかも日米衝突は当面はないとする実態無視の決定としか言いようがない(対独戦の本格的開始が1944年6月のノルマンディー上陸作戦であったことに注目すべきである)。この点は次回報告の「真珠湾攻撃事前察知『予知説』の立証」にてスタークのネライについて考察を試みる。
〈検証3〉米太平洋艦隊本拠地を西海岸からハワイに移管
ル大統領は、米太平洋艦隊本拠地を西海岸サンディエゴから真珠湾に移管する件で1940年10月ジェームス・リチャードソン合衆国艦隊司令長官をホワイトハウスに招いた。長官は「日本を刺激するのは確実であり、真珠湾自体防衛上問題が多い」とし改めて移管に強く反対した。リチャードソンが頑なに反対した理由として上記の他、ル大統領の「日本は遅かれ早かれ、米国に対し明白な行為をとるだろうと”日本の錯誤”」を言明したことであった(5)。翌年2月、大統領はリチャードソンを解任、飽くまで真珠湾を米太平洋艦隊の本拠地とし、自分に忠実なハズバンド・E・キンメル少将を大将に抜擢、米太平洋艦隊の司令長官に任命した。ほぼ同時期に山本長官が、真珠湾攻撃構想を及川海軍大将に口頭で伝え、その後、実行計画が動き出しだしたことから、リチャードソンの危惧がこのとき現実のものとなっていたと言ってよい。
攻撃直前の真珠湾基地は、主力空母3隻を含む艦艇158隻、航空機500機、兵員総数4万人を擁する太平洋最大の陸海軍基地へと変貌を遂げ、マーシャル大将も大統領に真珠湾の防衛は盤石であると太鼓判を押していた。ところが結果は予想外の惨敗となったことは先述した通りである。上記一連の海軍強化策が対独ではなく、飽くまで対日戦をターゲットとした戦争準備であったことは明白であり、疑問の余地はない。ところがアメリカは主敵ドイツ打倒のため真珠湾という「裏口」を利用して対独戦に参戦、対日戦は対独戦参戦のための裏口作戦”であったとするいわゆる「裏口参戦説」が定説化しているが、これは歴史の事実と異なるので見直す必要がある。本件は後章で取り上げる。
〈検証4〉奇襲可能性調査(Feasibility Study)の実態
・1941年8月20日、第5爆撃群司令官ウィリアム・ファーシング大佐は、同年3月に作成したF・マーチン陸軍少将とP・ベリンジャー海軍少将の真珠湾奇襲予測報告書をベースに、自身の見解をまとめ、アーノルド将軍に提出した。その内容は、①日本は保有空母10隻中6隻を使用する。②攻撃は早朝に行われる。③オアフ島北および南を含む西方230哩拠点より攻撃機を発進させる。とあり、南雲長官の実行計画を先取りしたかと思わせるほど酷似していた。アーノルド将軍は航空のトップであり、大統領主催のWar Cabinetにも時折招かれたので、日米の関係が引き返しの出来ない危機的状況にあることを十分認識していた。そしてその3・5か月後、彼らのほぼ想定通りに真珠湾が攻撃された。このとき日本外交暗号解読の功労者の陸軍情報部解読班長ウィリアム・フリードマンは、ただ部屋の中を歩き回り、「彼らは知っていたんだ、知っていたのに」と繰り返しつぶやくのみであった(6)。
〈検証5〉歴代真珠湾基地司令官による対日迎撃演習の実施
・1932年2月部隊司令官ヤーネル少将は対日迎撃演習を実施、2隻の空母「レキシントン」と「サラトガ」を率い、2月6日土曜の夕刻までにオアフ島北60マイルに接近、翌日曜日の未明、水平爆撃機、戦闘機、急降下爆撃機、雷撃機計152機を両空母より発進させ、地上にあった飛行機を全滅、湾内の艦艇の殆どを撃沈できたとする驚きの演習結果となった(7)。
・1938年3月14日航空部隊司令官アーネスト・キング中将は日本を「黒軍」と想定、艦隊空母「サラトガ」を率いて、北太平洋より日中オアフ島に接近、米艦隊を想定した「青軍」上空に突然現れ青軍を狼狽させた(8)。
・真珠湾直前の1941年11月23日、キンメル提督は演習191号を実施した。日本(黒軍)が北太平洋からオアフ島に接近したとき、米(青軍)の偵察機が黒軍を発見、双方による攻防訓練が行われた(9)。以上3例で着目すべきは、日本のハワイ接近ルートは全て北方海域からであり、南や南西方向ではないことである。責任ある立場の海軍将校で、北以外の方角から接近すると考えた者はひとりもいなかった。それは北以外の方角では船舶の海上交通路があり、発見される危険性があったからだという、至極真っ当な理由によるものだった。
日本軍の侵入方向と空母による航空攻撃をこれほど明確に想定していた米海軍であったが、12月7日当日のハワイ司令部は混乱を極め、「敵は南西方向」と終日繰り返し、北方海域の索敵は行われなかった(10)。結果、南雲艦隊は発見されることなくハワイ北方300哩付近に7時間も滞留、攻撃機全機収容後の13時過ぎ、全空母6隻無傷で粛々と引き揚げを開始した。一方、直前出航した空母2隻を含む米海軍艦艇計33隻も南雲艦隊と遭遇することなく、さりとて真珠湾に急行するでもなく、静観の姿勢を崩さなかった。結局日本の攻撃終了後、戦艦の残骸等ですっかり一変した母港に全艦無傷で帰投した。
真珠湾の惨禍だけが際立つ結果となり、しかも卑怯な騙し打ちと喧伝、強固な参戦反対の米世論を一気に参戦派へと世紀の大転換がここに実現した。ル大統領にとっては、想定以上の成功ということになる。11月25日、海軍作戦部インガソル次長名で航路変更命令(11)を発出した同じ日に、根拠となる客観的理由のないままに警戒方向は南西海域であり、北方海域の索敵は不要と命令したスターク作戦部長の意図は、日本の攻撃を想定していた故に発出した命令であり、そのネライがル大統領の意向に沿った南雲艦隊との遭遇回避、第一弾は日本に行わせるであったことは、その言動と結果の整合から歴然としている。11月25日の上記2本の命令と11月26日の「ハルノート提示」、11月27日の「戦争警報」の計4本の発令は、まさしくル大統領の対日戦開始、日本打倒の号砲以外のなにものでもなかった。
〈検証6〉日米戦想定「未来戦記本」の大流行
・1895年日清戦争で日本が「眠れる獅子・清国」を破ったとき、世界が極東の小国日本に注目した。その10年後の1905年小国日本が白人大国ロシアを破ったとき、世界は日本を東洋の強国と称し畏敬と恐れの目で見るようになった。ときの大統領セオドア・ルーズベルトは1903年サンフランシスコで「世界史を動かす舞台は、古代の地中海から大西洋に移ってきたが、いまや太平洋に移ってくるだろう」と演説(12)、いつか日米は衝突不可避の関係にあると予測、対日警戒感を一段と強め、オレンジプラン策定を命じた。斯かる世相のなか、巷では日米戦を予想した「未来戦記物」が大流行し、多数の書籍が出版された。その代表例として1909年発行の米人ホーマー・リー著『無知の勇気』(The Valor of Ignorance)、1914年の水野広徳著『次の一戦』、1925年の英人ヘクター・C・バイウォーター著『太平洋大戦争』(The Great Pacific War),1933年の平田晋作著『われ等若し戦はば』などがある。
『無知の勇気』は日本がフィリピン、ハワイを占領、その後サンフランシスコ、ロサンゼルスに上陸、西海岸を制圧、アメリカが負けるとした非現実的なストーリーとなっているが、ホーマー・リーが南北戦争時の南軍総司令官リー将軍の血を引いている人物であり、アメリカ市民に対日恐怖感を与えた。『次の一戦』は連合艦隊が沖縄近海で全滅する内容であり、当初海軍が発禁としたが、その主旨は海軍力の強化にあるとして解禁となった。『太平洋大戦争』は内政の混乱と中国問題で緊張が激化、日本がフィリピン占領の挙に出たことで日米戦が勃発するも、最後はアメリカが連合艦隊を撃破、フィリピンを奪還、日本が負けるとしている。ここで注目すべきは、ロンドン条約の交渉のため当地に居た山本五十六が、本書の著者バイウォーター氏に会っていることだ。会談後五十六が海軍伝統の「漸減邀撃作戦」では勝てないと感じたとしても不思議ではなく、一六勝負のハワイ先制攻撃敢行の動機となった可能性も否定できない。
『われ等若し戦はば』は、最終的には日本が勝つとしている。しかしその条件は飽くまで、日本海海戦と同じく、日本近海での決戦「待ちの作戦」であり、相手方は戦艦と空母だけでなく、海上長期戦を想定した大規模な弾薬、燃料、食料、医療、整備補修を支援する部隊を含めた大艦隊の派遣と、攻勢側は守勢側の3倍以上の兵力が必要とする定石、即ち攻める側の不利性、守る側の有利性の原則に則るとし、日本が長躯航海してアメリカ(ハワイ)に攻め込むなどは、論外とされていたことである。また平田晋作が本書執筆時の1933年、米海軍が前年の1932年に、日本のハワイ攻撃を想定した空母使用の航空機攻撃の演習結果(上記検証5参照)が記載されていた。米海軍のマル秘情報のはずが、当時の日本の未来戦記本にその詳細な演習結果が書かれていたことに驚くとともに、1932年、日本の真珠湾攻撃9年前に、米海軍が航空機を主体とした真珠湾攻撃を想定していたことを平田が知っていたことに注目すべきである。
〈検証7〉ハワイ日系人の強制収容計画が開戦5年前に決定していた
・1936年ル大統領は、海軍作戦部長宛ての覚書で「日本の船舶の乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際し強制収容所に送り込む特別リストを作成しておくべきだ」と伝えていた(13)。その後、担当秘書にその具体的リスト作成を指示した。いざ開戦となるや、予め作成していたリストに従って日系人の財産没収、収容所送りとし、最終的にその人数は12万人を超えた。この徹底した非人道的行為の結果、日系人経由の情報漏洩防止が奏功し、米国内情報が日本側に漏洩することはなくなった。日本も米国内情報ソースを失い、暗中模索の対米戦となり完敗につながった。憲法違反(人種差別)を承知の上で日系人隔離を命じたル大統領の対日勝利戦略の真骨頂ここにありというしかない。
(まとめ)
日露戦争の勝利で始まったアメリカの対日警戒感は尋常ではなく、日本人の想像以上のものであったが、歴史的には正に「ツゥキディデスの罠」の近現代版であり、新興国と覇権国との回避不能な争いであった。日露戦争中に策定されたアメリカのカラーコード戦略の最大のターゲットが日本であり、それに続く「日米未来戦記物」の大流行は、何ら絵空事でなく、最終的に起こるべきして起きた「日米衝突」であった。その根源はペリー来航時からとも言えるので、歴史的経緯は米独衝突とは基本的に異なる。
註(1)IPSHU研究報告シリーズNo33,2005-2,鹿野忠生・橋本金平共同論文『現代世界経済秩序の形成とアメリカ海軍の役割』広島大学平和科学研究センター、「第3章海軍整備の根拠とハルの極東政策の『岐路』」p207
(2)同上論文p205
(3)同上論文p233
(4)エドワード・ミラー著、沢田 博訳『アメリカの対日侵攻50年戦略―オレンジ計画』新潮社、1994参照、
(5)『スティネット本』p29
(6)「トーランド本」p446
(7)ジョージ・モーゲンスターン著,渡邉 明訳『真珠湾 日米開戦の真相とルーズベルトの責任』錦正社、1999,p26、27、 パールハーバー第14海軍区合同演習報告『Joint Exercise Report』参照(メリーランド大学ホーンベイクライブラリー、ゴードン・プランゲコレクション)
(8)「ステイネット本」p268,269、p281の註15
(9)「同上本」p270、272
(10)ハワイ司令部の混乱の源は、「海軍作戦部長スターク大将が、11月25日に全ての警戒方向を南方に変えるように命令していた」ことにある。ロベルタ・ウールステッター著、岩島久夫/岩島斐子訳『パールハーバー、トップは情報洪水の中でいかに決断すべきか』読売新聞社、1987、p43、
(11)海軍作戦部インガソル次長が11月25日付け航路変更命令252203号「全ての太平洋横断船舶はトレス海峡ルートをとるべし」を発令、北方海域の航行を禁じた。「ステイネット本」p265、「シラマツ本」p141、添付1,2
(12)猪瀬直樹著『黒船の世紀(上)』中公文庫、2011,p113
(13)日米開戦5年前の1936年、ル大統領が対日有事を想定し、ハワイの日系人を強制収容する計画を検討していたことがわかる覚書(1936年8月10日付け海軍作戦部長宛)がニューヨーク州ハイドパークの同大図書館に保管されていた。80年代アメリカの研究者によって発見されていたが、日本では関西学院大非常勤講師藤岡由佳氏(日米政治外交史)が入手、その事実が明らかになった。The Wayback Machine-Yahoo ニュースより抜粋。
【著者書籍】
企業担当者の連絡先を閲覧するには
会員登録を行い、ログインしてください。