第4回 真珠湾「騙し討ち」説の崩壊―ルーズベルトは知っていた、その最終にして完全なる報告4

株式会社22世紀アート

2023.08.10 20:44

日本の名誉回復に声を上げる。岸信介が「世紀の愚行」と称した真珠湾先制攻撃に厳正なる評価が行われることを切望する、白松繁氏が送る全11回にわたる報告書。

真珠湾史実研究会代表 白松繁
監修「元城⻄大学教授杉原誠四郎」

真珠湾攻撃事前察知「予知説」の立証

 真珠湾に関する調査委員会(含む査問会)が計9回行われたが、政府及び軍の高官で「私は日本の真珠湾攻撃意図を、事前に察知していました」と証言した者は、ひとりもいなかった(いなくて当然)。特にマーシャル陸軍参謀総長は、攻撃前日どこで何をしていたかと問われたとき、「自身に不利なことは記憶にないで押し通せ」との弁護士の指示通り、終始一貫「記憶にない」を繰り返した。委員会も委員会で、それ以上の追及は控えた。米戦史史上最大の惨禍となった真珠湾前日の行動を、頭脳明晰、最優秀エリートである陸軍トップの参謀総長が、何も覚えていないなど到底有り得ないことをスルーしてしまう調査委員会とは、真実究明が絶対目的でないことを自ら吐露したも同然である(1)。議会調査委員会の最終結論が「惨禍の責任は、ワシントンにはなく、警戒を怠った現地司令官のキンメル、ショート両司令官にある」とその全責任を両名のみに負わせたことが、その全てを物語っている。真珠湾発生82年後の現在に至るも「陰謀論」「騙し討ち説」が未だ絶えない根本原因が、民主党多数派主導の議会調査委員会報告にあることを認識する必要がある。そのうえで、以下、誰でもが得心可能な予知説の立証を試みる。

・証1. 奇襲前の前兆事象

 前兆事象と言えば、報告3の「ワシントンでは想定内」の各項目も本範疇に含まれることになるが、ここでは真珠湾発生一年前から発生当日までに起きた事象に絞って解説、これらが予知説をバックアップ、その証となっていることを明らかにする。

(a)奇襲10か月前の予兆:駐日米大使ジョセフ・グルーの「真珠湾攻撃計画情報」

 1941年1月27日グルー大使は,駐日ペルー公使リカルド・シュライバーより得た情報「日本ハ米国ト事ヲ構ウ場合、真珠湾ニ対スル奇襲攻撃ヲ計画中ナリトノコトヲ耳ニセリ。同公使ハ、計画ハ奇想天外ノ如キ見ユルモ、アマリ多クノ方面ヨリ伝エラレ来ルヲ以テ、トモカクオ知ラセス」(2)との機密電をハル国務長官宛て発信した。情報ソースは日本人通訳の発言との記述がある。本情報をハルより受け取ったスターク海軍作戦部長は、2月1日ハワイのキンメル長官に「この流言は信じられない、また予想できる将来に、こうした行動が計画されるとは考えられない」と静観の方針を伝えた。しかしこの10か月後の12月7日、真珠湾攻撃が勃発した。流言が流言でなかったことが証明されたのである。1940年1月の日米通商航海条約廃棄以来、アメリカは対日航空機燃料、屑鉄、工作機械等の輸出制限を次々と適用、最終的には石油の全面禁輸(宣戦布告に等しい)も有りうるのではとの緊張感が高まっていた。加えて11月11日、英海軍が空母「イラストリアス」よりソードフィッシュ型雷撃機21機を夜間発進させ、イタリアのタラント軍港を襲撃、戦艦3隻を撃沈した成功例から、米国内では次に真珠湾がターゲットにされるとのではとの憶測からノックス海軍長官が、空からの攻撃に対する真珠湾防衛強化を命じたのも順当な対応であった。かかる状況下でのグルー情報である。頭から否定し無視する状況ではなかった。しかしスタークは本情報を無視、キンメルに対しいかなる対応も指示することなく、現場の平静を優先した。と言うのもWar Cabinet(戦争内閣)内では、上述した対日経済圧迫策に加え、1940年9月の三国同盟締結直後の10月、アーサー・マッカラム少佐作成の「対日戦争挑発行動8項目覚書」(3)に基づく対日戦のロードマップが粛々と進行していたからである。スタークは表向きはともかく、内心ではグルー情報は事実であり、日本の攻撃意図をはっきりと認識したはずである。だからこそ、日本の警戒心を招かないように流言に過ぎない、アメリカは一切関知しないというしかなかった。そしてこの姿勢は12月7日の奇襲当日まで徹底して貫き通した。

 山本は1941年1月7日、真珠湾攻撃に関する文書「戦備ニ関スル意見」を及川海軍大臣に提出、「真珠湾攻撃計画」の書簡箋3枚を航空艦隊参謀長の大西滝治郎に渡し、検討立案を命じた。この3週間後にグルー大使の機密電がハル長官宛て送られたタイミングから、山本の計画が漏れたことは間違いない。「火の無いところに煙は立たず」である。

(b)奇襲7か月前の予兆:オレンジ(日本)の真珠湾空襲予測報告、太平洋艦隊の2

5%削減の目的

・的確な真珠湾空襲予測報告

 1941年4月14日、オアフ島陸・海軍航空司令官であったフレデリック・マーチン陸軍少将とパトリック・ベリンジャー海軍少将は、マーシャル将軍に、オレンジの真珠湾奇襲の危険性についての予測を電報した(4)。この内容に対し陸軍真珠湾査問会は「その正確さ、敵の意図の分析が超人的である点で予言的である」と称した。その内容は①最大限6隻の空母を使用、早朝攻撃をしてくる。②攻撃の前日の明け方、オアフから881海里圏を通過する。③攻撃当日の明け方、オアフから233海里より攻撃機を発進させる。であった。これに対し、米側の取るべき対応策(防衛策)を提示「この計画の鍵は米側が如何に非常事態に備えるかである」としている。奇襲7か月前にこれほど正確な予想と対策案が提示されていた事実に注目すべきである。マーシャルにとってこの一点のみでも、真珠湾が「青天の霹靂」であろうはずがないと断言できる。この後、日本の外交/海軍暗号の解読他複数の情報源で日本機動部隊のXデイに向かっての動向を把握していたにも拘わらず、それを阻止する行動は何もしていなかった。その一方で、あろうことか日本の第一弾投下が米側の防御体制下で妨げられないようにするための行動(当日朝の乗馬の嘘、午後1時手交情報遅延)を取っていた。

・太平洋艦隊の25%削減の目的

 1941年5月、スターク大将は、キンメル長官の再三の太平洋艦隊強化策の要請とは真逆の、空母1,戦艦3、巡洋艦4,駆逐艦18計26隻、太平洋艦隊の25%を大西洋艦隊への回航を命じた(5)。その後、スタークはさらなる削減、空母1,戦艦3、巡洋艦4,駆逐艦2個戦隊の回航を計画していた。これにはさすがのキンメルも驚きル大統領に直訴、辛うじて2回目の削減は取り止めとなった。1940年1月の日米通商航海条約失効後、あらゆる原材料物資の対日輸出が制限乃至禁止され日米の緊張はかってない高まりを呈していた。強化すべきはキンメルの言う通り太平洋であり、Uボートとの争いが中心の大西洋ではないはずであった。筆者は太平洋艦隊を半減することまで計画したスタークの極端な決定に注目、その背景を調査した結果、ヨーロッパ優先のレインボー5に基づいて回航したというのは名目で、スタークが最も恐れたのは、日本の強力な海軍力であり、主要艦船を予め避難させるためだったとの結論に達した。詳細は後述するが、当時の英米は独ソ戦の開始を半年以上前に察知(ハル回想録)ドイツの英国占領はないと判断していた。海軍トップ、スタークの艦隊削減は、日本の真珠湾攻撃を7か月前に予測していたということになるので、本件を有力な予兆の一つとして取り上げた。

(C)奇襲4か月前の予兆 :

 1941年8月20日,ハワイ第5爆撃群司令官ウィリアム・ファーシング大佐は、同年3月末、海軍パトリック・ベリンジャー少将と陸軍フレデリック・マーチン少将作成の「ハワイ防衛の脆弱性指摘(含その対策)」を受けて、「オアフ島防衛のための爆撃機配備計画」を作成、アーノルド将軍に提出した(6)。その内容は、①日本は保有空母10隻中6隻を使用する。②攻撃は早朝に行われる。③オアフ島北および南を含む西方230マイル拠点より、攻撃機を発進させる。侵入方向を北方と特定していないが、南雲長官の実行計画を先取りしたかと思わせるほど酷似していた。奇襲4か月前にこれほど的確に日本の真珠湾攻撃を予測したケースはない。後述するが、このとき米海軍が断固として守るべき拠点は島嶼のウエーキ島でもミッドウェー島でもなく、間違いなく本拠地真珠湾だったのだ。しかしファーシング大佐が要求した最低でも36機のB-17爆撃機の増強は行われず、11月時点でわずか12機に留まったままだった。このときの真珠湾はフィリッピンへ送りこむB-17の給油地に過ぎなかった。キンメル長官の太平洋艦隊強化の要求に対して25%の削減を強行したスターク大将は、奇襲4か月前、今度はハワイ航空隊による真珠湾防衛強化を求める報告を無視する挙にでた。

(D)奇襲一1週間前の攻撃予兆

・FBI 情報―ホノルル警察諜報局長ジョン・バーンズのオーラルヒストリー(口述歴史)によると、奇襲一週間前の12月1日か2日、FBIホノルル支部長ロバート・シバースに呼ばれ「われわれは一週間以内に攻撃される」と重大な情報を告げられたとある(7)。そして攻撃は、その予告通りに起きた。  

・ハワイ新聞報道―奇襲1週間前の11月30日ハワイの新聞“ホノルルアドバタイザー“とヒロトリビューンヘラルド“の2紙に、「週末に日本が攻撃か」のキャッチが一面トップを飾った。そして報道どおりその週末に攻撃が始まった。

・オグ報告―サンフランシスコ第12海軍区情報部所属のロバート・D・オグ一等水兵は、12月2日上司のエルスワース・ホスナー大尉より「民間会社が傍受した異常な電波が日本の発信と言っているので、詳しく調査するように」と指示された。オグは発信電波を方位解析した結果、日本機動部隊の発信と結論(8)、ホスナーに報告した(事実は、船橋から発信した数回の機動部隊宛てA情報発信が機動部隊という鉄の集団にあたり、反射再放射エネルギーとなって、それが再び電離層で反射してサンフランシスコで受信された極めて稀有な現象で起きた偶然の一致だった(9)) ホスナーは上司のリチャード・マカラフ情報部長に報告、マカラフは電話でル大統領に機動部隊のハワイ接近を伝えた(10)。12月5日の戦争閣議で大統領の「彼らが北へ行ってないという証拠はない」と明言、出席者を驚かせたが、その情報源はオグ報告と見ている。

・勘吉寿(キルスー・ハーン)の手紙ー中朝人民連盟代表の韓吉寿は1941年12月4日、米国務省極東課のマックスウェル・ハミルトン宛ての手紙で「我々は慎重検討の結果、日本艦隊による奇襲が12月の最初の日曜日に行われると確信しています。どうか大統領とハワイの陸海軍司令官に我々の懸念と情報をお伝えください」と伝えた(11)。しかし国務省はなぜか韓吉寿の情報を一顧たりもせず無視してしまった。奇襲は韓吉寿の言った通り12月の最初の日曜日に起きた。

(E)奇襲前日の予兆

 最終覚書第13部―12月6日東京発最終覚書第13部902号電を読んだル大統領は「これは戦争を意味する」と側近のホプキンズに言った。

 マル秘会議開催―同夜遅く、ル大統領は戦争閣議メンバーを緊急招集、明日予想される日本の敵対行為に対する対応策について話し合った(12)。

(F)奇襲当日の予兆

 最終覚書第14部―12月7日午前10時頃第14部を受け取ったル大統領はその内容が「平和交渉中止通告』と知った。昨日の第13部で「戦争を意味する」と解釈したル大統領にとって、8か月にも及ぶ交渉を中止するとした最終通告が何を意味するか判り切ったことであったが、昨夜のマル秘会議で決めたように2回目の警告を発することはしなかった。大統領は12月8日の議会演説では、最終覚書は単なる交渉中止通告であって宣戦布告ないしそれを示唆する文言は何もなかった即ち「騙し撃ち」と強弁した。

 午後1時手交電―上記第14部902号電とは別に907号電で「第14部をワシントン時間午後1時にハル長官に手交すべし」を傍受解読した。ワシントン時間午後1時はハワイ時間同日朝7時30分であり、奇襲時刻朝8時と予想できた。マーシャルとスタークは直ちにキンメルとショートに厳重警戒を呼び掛ける責務があったがそれをしなかった。

(G)コタバル上陸。

真珠湾奇襲1時間50分前、日本陸軍はマレー半島コタバルに上陸、迎え撃つ英印軍と戦闘を開始した。本重大情報がホンコンのイギリスFECB(極東合同局)よりチャーチル経由ル大統領のルート、またはFECB→フィリピンCAST局→ワシントンのルートで伝達され、ル大統領は真珠湾前にアジア地域での戦争勃発を知ったことは、それまでの英米間の緊密度から確実と言える。

 (H) 日本潜水艦の砲撃

真珠湾奇襲25分前イ26号潜水艦がややハワイ寄りの大西洋上にて米貨物線シンシア・オルソン号を発見、砲撃沈没させた。オルソン号のSOS無線を受信した米客船ルアライン号経由、米海軍はこの事実を知ったと推定される。

 (I ) 駆逐艦「ワード」の砲撃

奇襲1時間前、米駆逐艦「ワード」が真珠湾口に接近した日本の小型潜水艦を発見、爆雷4発で撃沈、艦長は直ちに司令部へ報告した。

<まとめ>

真珠湾奇襲前の1年間に奇襲を予知させる、予兆、予告等がこれほど多く存在していたにも関わらず、しかもこれらのすべてが単なる風聞ではなく、言葉通りに奇襲が実際起きたことから、当時の戦争内閣メンバー、とりわけ陸海軍トップのマーシャル参謀総長とスターク作戦部長の責任は重大である。何故これだけの前兆情報を得ながら一つとして取り上げることなく徹底無視の姿勢は、もはや前兆どおり真珠湾が奇襲されても構わないと言っているも同然ではないか。そして惨禍の全責任を戦時内閣が掌握していた重要情報を知らされていなかった現場の司令官キンメルとショートにあるとして両名のみを断罪した。次回より事前察知、予知説を証明するあらゆる角度からの検証例を取り上げる。

   

注釈

(1)ここでは一例のみ紹介したが、証言に対する突っ込み不足(事実の究明回避)は至る所で散見される。例えば海軍査問会でキンメルがスターク提督に11月26日に、日本がイギリスとフランス(アメリカ?)に攻撃を仕掛ける意図ありとの特別な証拠を受け取った覚えがありますか」と尋ねた。スタークは「この質問に答えることが公共の利益を害しかねない」と主張、会議は「国家機密」を暴露する必要はないと裁定、彼を救った(エドウィン・レートン著、毎日新聞外信部訳『太平洋戦争暗号作戦上』TBSブリタニカ、p283)、なおこの11月26日の重大情報が山本長官の「ハワイ出撃命令」であったことを後章にて明らかにする。また議会調査委員会で民主党ルーカス議員の『ヒトカップと綴る港名を真珠湾前に知っていたか』の質問に対しスタークは「われわれは、その港名を知っていた」と応えた(シラマツ本p162,添付31)。ヒトカップ湾はハワイ出撃のため連合艦隊が終結した場所である。その場所を事前に知っていたということは、連合艦隊の動向を知っていたことに繋がる重大な証言であった。しかしルーカス議員はスタークに対しその事実追及の尋問はしなかった。さらに、議会調査委員会の最終結論の一節「日本がこの国を攻撃するように、トリックにかけ、刺激し、扇動したとの非難を支持する証拠を見出さなかった、」と述べているがそれでは、日本を開戦に追い込むための石油を含む主要原材料の対日輸出禁止は何だったのかと問いたい。

(2)阿川弘之著『山本五十六(下)』新潮文庫、1973,p27、「スティネット本」p67「駐日米大使館三等書記官マックス・W・ビショップは、ペルー日本駐在公使リカルド・シュライバーより、「アメリカと対立した場合、日本は軍事的資産すべてを投入して、真珠湾の攻撃を計画している」との情報を得た。

(3)「スティネット本」p451、海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが三国同盟締結直後の1940年10月7日に作成したもの。第二公文書館史料「The McCollum Memo:The SmokingGun of Pearl Harbor:パールハーバー動かぬ証拠」の存在を2019年同館訪問時確認。

(4)ジョージ・モーゲンスターン著、渡邊 明訳『真珠湾 日米開戦の真相とルーズベルトの責任』錦正社、1999、p101

(5)エドウィン・レイトン著、毎日新聞外信グループ訳『太平洋戦争 暗号作戦(上)』TBSブリタニカ、1987,p155

(6)同上本、p207

(7)杉田誠著『総点検 真珠湾50周年報道―何がどこまでわかったか』森田出版1992,p121

(8)「シラマツ本」p143、図3 機動部隊行動経路(戦史叢書ハワイ作戦の記述)とオグ報告位置(スティネット本p336)の一致、

(9)青木勉著『日米検証 真珠湾』光人社、1991,p191

(10))今野勉著『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』PHP文庫、2001、p138

(11)「トーランド本」p414

(12)「レイトン本」(下)、p63,「トーランド本」p460,ジョージ・ビクター著『The Pearl Harbor Myth 』Potomac Books, 2007, p282、その要旨は「スタールマンによれば、真珠湾攻撃の1週間後、ノックス(長官)は私に、12月6日の夜、ホワイトハウスで幹部だけが集まり、日本軍がどこかを攻撃しようとしているとの予測から長い間話し合った。出席者は大統領、ホプキンズ。スチムソン,マーシャル、ノックス、ジョン・マックレアー、フランク・ビーティであると語った」

 

【著者書籍】

そのとき、空母はいなかった: 検証パールハーバー (22世紀アート)/白松 繁

真珠湾攻撃 「だまし討ち説」の破綻 裏口参戦説を糾す/白松

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